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CHAPTER 04

ただ生きる喜び身体で生きる、ということ

ここまで社会全体のマクロな話をしてきました。重い数字が続きましたが、これらを暗い話として受け取るのではなく、ただの大前提として捉え、ここからはミクロな気づきについてお伝えします。

ノンビリムラを通じて気づいてきた「ただ生きる喜び」とは何か、という話です。

最初は私の主観から始めますが、途中から科学的な研究も入れていきます。主観だけだと個人的な感想で終わってしまうからです。

この「身体で生きる喜び」は、海外の研究で結構ちゃんと数値化されています。それを紹介しながら、ノンビリムラがやっていることに、どんな意味や効果がありそうか言語化してみたいと思います。

自炊しない人が、料理をしてみた瞬間

普段、自炊をしない人が、たまに料理をすると、どうなるか。

最初はぎこちない。包丁の使い方も、火加減も、調味料の量も、全部分からない。レシピを見ながら、一つひとつ確認しながら進める。

でも、しばらくすると、何かが変わってくる瞬間があります。

食材の硬さが、包丁を通じて手に伝わる。鍋の音が変わる瞬間に、火加減を変える。塩を入れた瞬間の野菜の色の変化に気づく。これらは、レシピには書かれていない情報です。

このとき、人間の脳は、第6章で詳しく書く「予測を立てて、現実とのズレを学習する」というモードに入っているんだと思います。

料理が完成して、食べてみる。「あ、塩が足りなかった」「火が強すぎた」「玉ねぎを炒める時間が短かった」──全部、次への学習データになります。

この一連のプロセスが、楽しい。シンプルに楽しい。

私は普段、料理をする方ですが、新しい食材や、新しい料理に挑戦すると、この「初めての料理人」みたいな感覚が戻ってきます。出会った課題に対して、仮説を立て、検証し、誤差から学習し、自分が成長する。この種の喜びは、きっと自分だけではないと、人生を通じて、強く思うようになりました。

消費ではない喜びへ

子育ての現場、教育や児童福祉の現場、こども向けイベント、などでよく見る光景として、ビーズをアイロンで溶かし固めたり、スライム作っては捨てる、安価なプラ商品を、子どもたちが工作で際限なく消費していく光景を頻繁に目にし、嫌悪が強く心に残っています。

買う、開ける、少し遊ぶ、終わったら、ゴミ箱へ。また買ってくる。これに加え、ドーパミン出力を促す工夫された、クレーンゲームやガチャガチャが敷き詰められたプラごみ報酬ゲーミフィケーション的娯楽空間。

しかし、消費による喜びは発動も消失も短期的で、持続しません。だから、リピートし、売上と利益は高まる訳ですが、ゴミが増えるのもいい気分ではありません。

森での焚き火はどうでしょうか?火おこしは意外と難しいです。しかし、火あそびが嫌いな子どもはいません。中学生くらいになると、なぜしてはいけないかを論じる子どももいますが、今のところ火遊びが嫌いな子に出会ったことはありません。

燃やしても燃え広がらない安全な場所の選定、焚き付けと薪を拾う、正しくセットする、マッチで着火する、しかし、マッチをすぐ投げるから、火が付くべきところに燃え移らず失敗、何度か失敗するが、観察して学び、上昇気流、湿気、焚き付けや薪の油分の考慮などを行うようになります。

他者である複雑な自然と関係し、向き合い、失敗し、工夫し、うまくいく。関係し、成長し、解決する喜び。

また、人工物だったとしても、道具と向き合う、最初は使いこなせない、でも、練習する、まるでスポーツのように、物と向き合う、関係する、いつしか使いこなし、制作に没頭する。スポーツも、静的な制作も、関係し、成長し、解決する喜び。

「消費」の体験は一瞬ですが、「関係」「成長」「解決」の体験は、やりたいことがあったり、面白い遊びさえ知っていれば、獲得できる喜びはほぼ無限です。

円安構造の中で、日本で自給できないプラ素材の商品を、子どもたちが湯水の如く消費していく。しかも、無駄遣いしても、壊しても、誰も怒らないコンプラ時代。

プログラミング教室もこの10年流行りましたが、今や失業リスクが最も高い職種となりました。生活スタイルとしては、どこにいようが、誰かと飯を食っていようが、スマホを覗き込み、目が合わない、大人もこどもも画面に吸い込まれるデジタル中毒。注意していないと、いつの間にかビックテックにハックされるデジタル小作人として、休日と無賃労働しているようなものです。

消費(デジタルドラッグも含む)による学習は、人間を弱くデザインしているようにも見えます。喜びの獲得は人それぞれ。しかし、如何に喜びを獲得しながら生きていくべきかというひとつの問いへの答えを、そろそろ探し始める時期のような気がしています。

「身体で生きる喜び」は、科学で測れるのか

ここまで私の主観を書いてきました。読み手によっては「いや、自分は都会の便利さが好き」と思うかもしれません。実は私も、都会的娯楽としての映画館体験が大好きで、月に3~4回は新作映画を観に劇場に足を運んでいます。つまり、自然が唯一絶対の体験であるとは全く思っていません。

ただ、この「身体で生きる喜び」が、実は統計的に測定された幸福度の研究として、海外で結構な蓄積があります。これを知ったとき、私は少し驚きました。「あ、これは私の主観だけじゃなくて、人類共通の何かなのかもしれない」と。

代表的な研究を二つ紹介します。

研究1:鳥の種類が多い場所に住む人は、収入が高い人と同じくらい幸せ

ドイツのライプツィヒ大学を中心とした研究グループが、2020年に学術誌『Ecological Economics』に発表した論文があります。

著者:Joel Methorst、Aletta Bonn、Martin Marselle、Katrin Böhning-Gaese、Katrin Rehdanz

調査内容:

  • 欧州26カ国、26,000人以上を対象とした「欧州生活の質調査(European Quality of Life Survey)」のデータを使用
  • 自宅周辺の鳥の種多様性と、生活満足度の関係を統計的に分析

結果:

  • 鳥の種類が14種多い環境に住んでいる人の生活満足度は、月収が124ユーロ(約2万円)多い人と同じくらい高い
  • 鳥の種多様性が10%増えると、所得が10%増えるのと同じだけ幸福度が上がる
  • これは、年齢、教育、健康、所得などの他の要因をコントロールした上での結果

2つの異なる研究が、同じ方向を指している。身近な自然は、所得と並ぶ幸福度の決定要因。

この研究を読んだとき、私は思わず声が出ました。

「鳥が見える」という、それだけのことで、収入と肩を並べる規模で人が幸せになる。

私たちの社会は、所得を上げることに膨大なエネルギーを使っています。GDPも、賃上げも、株価も、全部「所得を上げる」ことに関わる議論です。

でも、この研究が示しているのは、「身近な生物多様性」を増やすことが、所得を上げるのと同じくらい人間を幸せにする、ということです。

そして、ここで「鳥」が指標として使われているのは、たまたまではありません。鳥は生物多様性のバロメーターなんです。鳥が見える=そこに多様な生き物が住める環境がある、ということ。

つまり、この研究は本質的には、「身近に多様な生命を感じられる環境」が、人間の幸福度に直接影響するということを示しています。

研究2:自宅から300m以内の緑地が、生活満足度を有意に上げる

もう一つ、似た研究を紹介します。

イギリスのウォーリック大学などの研究グループが、英国の「Annual Population Survey」のデータを使って、緑地アクセスと幸福度の関係を分析した研究です(Houlden et al., 2017、その後の関連研究も含む)。

調査内容:

  • イギリス全土の25,518人を対象
  • 自宅から300m以内の緑地(公園、森、草地など)の量と、本人の生活満足度・幸福度・自己有用感の関係を分析

結果:

  • 自宅から300m以内の緑地が1ヘクタール増えるごとに、生活満足度が0.803ポイント、自己有用感が0.740ポイント、幸福感が0.521ポイント上がる(統計的に有意)
  • 「身近な緑地に歩いて行ける」と強く同意する人は、そうでない人より生活満足度が0.467ポイント高い

この数字、ピンと来ないかもしれません。なので、イギリス政府がこれをどう使っているかを書きます。

イギリス政府は、生活満足度1ポイント上昇=1WELLBYと定義し、「1WELLBY ≒ 13,000ポンド(約260万円)の経済価値」として、政策評価に組み込んでいます。

つまり、自宅から徒歩圏内の緑地が増えることは、国家会計上、お金で換算できる「公共便益」として認められているということです。

「自然があると気持ちいい」という曖昧な話ではなく、緑地は経済価値として測定されている。これは結構すごい話だと思います。

この2つの研究が、ノンビリムラに与える示唆

ここまで紹介した二つの研究(欧州26カ国の鳥多様性研究、英国の緑地研究)を、私はノンビリムラの活動と重ね合わせて考えています。

  • ビオトープを作って、トンボやメダカが住める環境を回復する
  • 竹を整理して、暗かった森に光を入れて、下草、昆虫、鳥が増える環境を作る
  • 果樹を植えて、落ち葉溜まりと、蜂が来る場所を増やす
  • 鶏を飼って、除草、毒虫の個体数調整、定期的な採卵を目指す
  • 日本ミツバチの巣箱を置いて、花粉媒介者を呼ぶ
  • 重機を使わずに土を動かして、地形と植生の連続性を保つ

これら全部、「身近に多様な生命が感じられる環境」を増やすベクトルにあります。

そして、海外の研究が示しているのは、こうした環境が、人間の幸福度を所得と肩を並べる規模で押し上げること。

つまり、ノンビリムラの活動は、私の主観的な「気持ちいいから」だけでなく、統計的に測定された人間の幸福の根本に作用している可能性があります。

里山と田園を「身体性を伴う感動」が生まれる場所として再生する。これは、観光資源としても、教育の場としても、住民の幸福度を上げる装置としても、機能しうる。

そして、それは久山町のような場所が、福岡市にはできないやり方でやれることでもあります。この話は、第10章〜第12章で具体的に扱います。

「他者」は、人間でなくてもいい

人間は社会的生き物だ、とよく言われます。これは間違っていないと思います。人とのつながりが、人間の幸福にとって決定的に重要なのは、多くの研究が示しています。

しかし、「他者」という存在を、人間に限定して考える必要があるんでしょうか。

鳥が来る、鶏が産卵する、川に魚がいる、樹が育つ、ミツバチが入る、トンボが飛ぶ──こうした非人間的な「他者」との関わりも、人間社会と同じくらい、人間を幸せにする力を持っている。少なくとも、私が紹介した研究はそう示唆しています。

これは、現代の都市生活の中で、私たちが見落としがちな視点です。

人間関係に疲れて、SNSを見て、また疲れる、という循環に入っている人は、少なくないはず。日本における退職理由の第一位は「人間関係の悪化」です。

これを踏まえると、人間関係に疲れたときに、「人間以外の他者」と関わる回路を持っているかどうかが、とても大きい気がしています。

ノンビリムラに来てくれる人たちが、川や火や鶏や森に夢中になっている姿を見ていると、これは「都市のストレス発散」じゃなくて、人間が本来持っているもう一つの社会性──非人間との社会性──を取り戻しているんじゃないか、と感じます。

ただ生きる喜びの正体

「ただ生きる喜び」とは、なんなのか。

やってみたいと思ったらまずやってみる、やってみようとする。それを他者、人間でも非人間でもいい、誰かと一緒にやってみる。すると、そんなに簡単にいかない、失敗して、工夫して、解決をする。簡単すぎる消費的遊びは意識的に制御する。

先人たちが作り上げてきた社会と経済の恩恵から、私たちは道具やサービスとして、自分の力ではなく外部へ委託して、消費による達成をしています。これを見直す。

ダイジェスト版で生きている現代の生活スタイルを、少し遅くしていく。

すると、簡易ではないこと、少し時間がかかること、それらに取り組む時間の中に「ただ生きる喜び」の種がたくさんあると考えています。

これは抽象的に聞こえるかもしれませんが、実際にやっていることは、すごく具体的です。

  • 火を起こす
  • 何かを作る
  • 土を動かす
  • 鶏に餌をやる
  • 川で魚を捕る
  • 木を切る
  • 種を蒔く
  • 鳥の声を聞く
  • 風を感じる
  • 仲間と話す

そして、海外の研究は、これらが測定可能な幸福度として現れることを示しています。

里山と田園が、もともと持っていた身体性

ここで気づきたいのは、いま「珍しい体験」として書き出している、火を起こす、川で魚を捕る、土を動かす、鳥の巣箱を置く、こういうことは、ほんの数十年前までは、日本の里山と田園では日常だったということです。

田んぼに水を引き、畔を直す。山に入って薪を集める。鶏を絞めて、その日の夕飯にする。子どもは川で泳ぎ、虫を追いかけ、季節と一緒に大きくなる。火を扱える、刃物を扱える、雨と土と動物の挙動が読める。

これらは特殊スキルではなく、その土地に生きていれば自然と身につくものでした。

里山と田園は、第4章で書いた「身体性を伴う感動」が、生活の中に勝手に組み込まれている場所だった、ということです。意識して取り戻すまでもなく、ただそこに住んでいるだけで、人間の脳と身体が必要としているものが供給されていた。

ノンビリムラに来てくれる人たちが「次にやりたい」と書いてくれたリスト(水で遊ぶ、火を扱う、山にいる、生き物と関わる、自分で作る)は、現代から見ると「特別な体験」のように見えるけど、人類史の長い時間軸では、ただの日常です。

それが「やりたいこと」としてわざわざ書き出されている、というのが、現代の里山と田園が抱えている問題の核心だと思います。

でも、その担い手が消えている

ところが、その里山と田園の担い手が、急速に消えています。

農業後継者の未確保率:75.6%。

林業従事者は1980年の14.6万人から、2020年の4.4万人へ。

耕作放棄地は42.3万ヘクタール(2020年、滋賀県の面積と同程度)。

担い手が消えれば、田んぼも畑も山も荒れます。荒れた田畑には、子どもが川遊びをする場所も、虫を追いかける場所も、火を起こす場所もなくなる。

つまり、身体性を伴う感動を生み出していた環境基盤そのものが崩壊している。

そして、ここまでは「自然・里山・田園」という、いわば古い側からの話でした。一方、私たちの今の生活には、もう一つ、対極の方向から圧倒的な変化が押し寄せています。AIです。

次の章では、視点をぐっと変えて、現代の最前線──AIが日常に入り込みつつある世界──から、もう一度、身体性の話を考えてみます。

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