本文へスキップ
mie
CHAPTER 06

未知との遭遇が消えた脳と現代生活

未知との遭遇

年齢に関係なく、多くの人類が、1日8時間、画面付き計算機と一生懸命対話していることが風景となった今。デジタル世界では、レコメンド機能もAI性能も極まり、予測可能性の中から出られない、第2章で引用したヴェーバーが言う「鉄の檻」のような生活様式に向かっているように思います。

子どもは、学校が終わると、インターネットに接続できるスマホで、ロブロックス、マイクラ、フォートナイト、その他IPタイトルのゲームプラットフォームにログインし、そこで、雑談しつつ、過剰ドーパミンを発火しながらゲームに没入します。

現役世代の大人は、日中はデスク、車移動、とにかく座りっぱなしで、体力が衰え、自炊よりも、外食と惣菜で孤食。意識が高い人は、空いた時間でジムに通い、筋トレなど運動を行うが、可処分時間がかなり少なく、自治会の存在は知らず。

高齢者は、自治会の役割もあり、若者、子育て世代の参加を渇望しているが、そもそも、子どもは数が少ないのもあり、イベントで300人集まっても、こども、若者は20名以下という、地域へのコミットメントが空振り感に終わることも珍しくない。さらに後期高齢者は、集合住宅(サービス付きも含む)に住み、わざわざ一階に降りて外出するほどの理由もないため、外出機会が減り、隣の部屋の人と交流するわけもないわけで、「やることがない」状態が続く。結果、認知症リスク、孤独死リスクが上がる。一方、戸建ての農家など手仕事を続けている方は本当に元気。

自治体は、農村解体時代から、都市から郊外への定住がデフォルトになった前提を踏まえ、人口集積による、インフラコスト最適化や国からの補助金を使いながら住民サービスを拡張というミニ都市化を目指し、この地域じゃないとできない固有の営み(漁、林業、農業)は忘れていきました。

結果、森林は誰も見向きもしない、ドライブ中に眺めるだけのインテリア、経済的には負の遺産となり、戦後に植えた杉が放置され、開発後に急成長する竹が生い茂り、暗い森が簡単に出来上がります。植物だけでなく、昆虫や鳥など、あらゆる生態系の多様性が衰退し、海への栄養バトンも切れ、漁獲量は減少していっています。「昔は、河原の石垣に、竿突っ込んだらウナギなんていくらでも取れたのに」というセリフを二世代上の方から聞いたりもします。

5つのレイヤー(子ども、大人、高齢者、自治体、森林)すべてで、人間が身体で関わるべき対象との接続が、それぞれ違う文脈で構造的に切れています。

身体性の欠如は何を奪うのか?

先人たち、そして、私たちは、文明の発展とともに「生きやすい社会」を目指してきましたが、結果、「生きにくい社会」という側面も作り出してしまいました。

都市生活の安全便利快適の代償に身体性が失われていくという傾向が進み続けてきました。

私たちは、本来、身体性を使うことの恩恵として、頭で考えて分かるのではなく、身体で世界に物理的に働きかけて、世界からの応答を、予測に対して解像度の高い予測誤差を全身で知覚することで、肉体を伴って学び、ただの知識ではなく、すぐに使える知恵として昇華してきました。これは技能と呼んでもいいかもしれません。

つまり身体性が失われてきたということは、生活の中で起きうる予測誤差(=未知)が失われてきたと言い換えることができます。

商業エリア以外も、夜明るく照らされるようになっていく中で、暗がりをよく見ると「知らない生き物がいた」といった感動体験は、誰か大人が意図的にその世界に連れ出さないと、体験できないようになった気がします。

つまり、何が言いたいかというと、今は失われつつある、身体を介して、予測を裏切られ続ける体験は、知識を知恵に昇華させる本質的学びであり、世界は生きるに値する価値があると感じる感動にもなると考えています。

脳は「予測機械」である

この「予測誤差から学ぶ」という仕組みは、私の直感ではなく、脳科学のレベルでかなりはっきり裏付けられています。

ロンドン大学のカール・フリストンが提唱した「自由エネルギー原理」によると、脳はこう動きます。

予測(トップダウン) → 感覚入力との照合 → 予測誤差の検出 → モデル更新。

脳は感覚情報を受け取る前に、すでに「次に何が起きるか」を予測している。差があれば、モデルを更新する。差がなければ、そのままスルーする。

私たちが「見ている」「聞いている」と思っているもののほとんどは、実は脳が予測した世界に、感覚入力で軽く補正をかけたものだ、ということです。

脳の予測ループ:予測→照合→予測誤差の検出→モデル更新

予測符号化の理論によると、脳は予測誤差を処理することで「学習」しています。予測通りのことが起きたら、脳はあまり活動しない。エネルギーを節約する。予測と違うことが起きたら、脳が活発に働いてモデルを更新する。

つまり、予測誤差は、脳が成長するための燃料だと言えます。

これを踏まえると、人間が「生きている」と感じる瞬間の正体が見えてきます。

  • 子どもが新しいおもちゃに夢中になるのは、予測誤差が多いから
  • 旅行が楽しいのは、見るもの聞くもの全部が予測誤差だから
  • 初めての料理に挑戦すると充実感があるのは、予測モデルを大量に更新するから
  • 久しぶりに会う友達との会話が新鮮なのは、予測モデルが追いついていないから

逆に、予測誤差がゼロに近づくと、脳は休眠モードに入ります。

  • 同じ道を毎日通勤するのが、退屈なのに疲れる
  • 慣れた仕事を延々と続けるのが、面白くないのに脳は消耗する
  • 休日にダラダラとSNSを見続けると、何もしていないのに疲れる

これらは全部、「予測誤差ゼロ × でも脳は動いている」状態の特徴です。

現代の罠、予測誤差を奪う設計

現代の多くのデジタルサービスは、レコメンド最適化、つまり予測誤差をゼロに近づけることを目的に設計されています。これは陰謀論ではなく、設計思想として明確に存在します。

TikTokは好きそうなものを延々と流す。Netflixは冒険しなくていい作品を提案する。Amazonは欲しいものを検索前に出してくる。スマホ通知は次に来る情報を、身体感覚より早く脳に届ける。

短期的には便利で快適です。でも長期的には、脳の予測誤差処理機能を萎縮させる可能性が高い。人間の脳は、予測誤差を処理することで進化してきました。それが何百万年も続いてきた。なのに、ここ20年で突然、予測誤差ゼロの情報環境に大量に触れることになった。進化が想定していない事態です。

ここに重なるのが、スタンフォード大学のアンナ・レンブケの『ドーパミン・ネイション』(2021)の議論です。現代のデジタル環境は、人間のドーパミン報酬系をハイジャックしている。SNSの「いいね」、ゲームのレベルアップ、ショート動画のスワイプ──これらは本物の生存価値はないのに、ドーパミンを大量に分泌させるよう設計されている。

続けると、ドーパミン受容体が減少し、日常の地味な喜び(食事、会話、自然、運動)に対する感度が下がる。強い刺激なしには楽しめない脳になってしまう。

デジタル環境と自然環境の予測誤差量の対比

気になるのは、現代の子どもたちが生まれた時からこの環境にさらされていることです。脳の予測誤差処理機能が育つ前に、予測誤差ゼロ × 偽の報酬の環境に浸ることになる。第2章で見た子どもの自殺・不登校・メンタルヘルス悪化の数字と、無関係ではないかもしれません。

オーストラリアでは16歳以下のSNS使用が法律で禁止になりました。SNSとの付き合い方をアップデートする時期なのかもしれません。

森と火と鶏が、逆の処方箋になる

森、川、火、鶏、ミツバチ、雨、土──これらは、予測誤差まみれの環境です。

定期的に都市から、森へ冒険に行くことで、欠乏と欲望のドーパミン依存症に陥らず、普通の生活を味わうように、自身を豊かにファインチューニングすることができるのでは。

予測誤差の連続が、脳がモデルを更新し続け、これが、人間が「生きている」と感じる根本的な構造なのでは。

OODAループも、Antifragilityも、行為的直観も、全部「予測誤差を処理し、モデルを更新する」というメカニズムを、別の言葉で言い換えているのではないか。

西田とフリストン、再び

ここで、第5章で触れた西田幾多郎の「行為的直観」を、もう一度引き合いに出します。

西田は1936年に、こう書いていました。

「モノを認識するとき、自分がそのモノに働きかけ、作る立場で直観する」

そして、フリストンは2010年代に、こう体系化しました。

「脳は予測モデルを使って世界に働きかけ、予測誤差を通じて世界を学習する」

この二つは、異なる時代、異なる文化、異なる学問領域から、同じ構造に到達しています。

人間が世界と関わる本質的な仕方は、「世界を眺めて理解する」のではなく、「世界に働きかけて、応答を通じて理解する」ということ。これが、神経科学的にも、哲学的にも、共通して指摘されています。

「人を遅くする」という言い方

私はノンビリムラのことを話すとき、たまに「人を遅くする場所」という言い方をします。

これは「効率を下げる」という意味ではなくて、現代の高速処理モードに入った脳を、もう少し本来のリズムに戻す、という意味で使っています。

具体的には:

  • 火を起こすのを、ライターではなく、薪と着火剤と工夫でやってみる
  • 食事を、UberEatsではなく、自分たちで作って食べる
  • 鶏を、写真ではなく、目の前の生き物として観察する
  • 移動を、車ではなく、たまに徒歩や自転車にしてみる
  • 子どもの遊びを、YouTubeではなく、川や山にしてみる

これらは「不便」ではなく、人間の脳が本来求めている処理モードを取り戻す行為です。

ポップに森に誘い、未知の面白さに惑わせる。それを通じて、現代の都市生活で萎縮した予測誤差処理機能を、ゆっくり回復させる。こんなイメージで普段企画させてもらっています。

郊外でも未知との遭遇は容易ではない

身体的予測誤差、未知との遭遇(予測誤差)、これらに出会う生活様式を取り戻すことで、取り上げてきた社会問題にもコミットできるのではないかという仮説があるわけですが、これは都会に限った話ではありません。

都道府県の中心地でも、郊外であっても、もっと僻地であっても、都市的象徴のイオンモール的な商業施設や巨大プラットフォームに接続できるインターネット環境は存在するわけで、アクセスコストも低く、住んでいる場所に関係なくそれらの恩恵を前提にした生活様式が日本人の99%に実装されています。

福岡市の人々の生活も、ノンビリムラがある久山町の生活も、大して変わらないのです。

自治体レベルでも同じことが起きている ── 風の谷の図

ここまでは個人と環境の話でしたが、自治体レベルでも同じ構造が観察されています。

安宅和人さんたちが進めている「風の谷」プロジェクトの議論で出てきた、「現在の疎空間で起きている負のスパイラル」という図がありますが、簡単に言うとこういう構造です。

  • 都市から疎空間(地方、山村)へ、税金や補助金などの「税的資本注入」がある
  • それは主にヘルスケア、土木、教育に配分される
  • でもその投入の結果、ヘルスケアは「負担が増え、人口減少が起きる」、土木は「何も生まない」、教育は「子どもたちが都市へ流出する」
  • そして、農と食、文化、空間、人の呼び込みは弱体化していく
  • 結果、GDPは下がり、空間の価値が下がり、都市依存がさらに高まる

これは「負のスパイラル」と呼ばれています。

さらにもう一つ、「都市を目指す現在の疎空間」という図もあります。日本の地方創生のほとんどが、「ミニ都市を作ろうとしている」という指摘です。全自治体が大都市を目指しているけど、全部が大都市になれるはずがない。だから、結局みんな中途半端になる、という話。

子ども・親・高齢者・自治体・森林と、関わるべき対象との断絶

これらの図を見て、私が思うのは、今の地方創生のやり方そのものが、上で書いた「身体性の剥奪」をさらに加速させているんじゃないか、ということです。

地方を「ミニ都市化」すれば、都市と同じ問題(孤立、少子化、メンタルヘルス悪化)が地方にも輸出される。これは解決ではなく、問題の拡大です。

ここまでが「人間側」のメンテナンスの話でした。次の章では、ノンビリムラのもう一つの側面、「森を明るくする」話に入ります。ノンビリムラはヒトを単位とした場所ではない。他者としての自然と人間が、お互いをメンテナンスし合う場所として機能できないか探求しています。

お問い合わせ、
ご相談はこちら