暗い森が、川と海まで弱らせる森林・川・海の連鎖
身近な自然が幸福度を上げる、予測誤差が脳の燃料になる──ここまでは「人間にとって自然と関わることはなぜ大事か」という話でした。でも、ノンビリムラはそれだけの場所ではありません。
人間と自然の関係は、双方向であるべきです。人間が自然から何かを得ているなら、人間も自然に何かを返せるはず。この章では、人間が自然に返す側、特に森に対するメンテナンスの話を書きます。

日本の森は、今、暗い
日本の国土の約3分の2は森林です。フィンランド(75%)、スウェーデン(69%)に次ぐ世界トップクラス。「森林大国」と呼んでもいい量です。
でも、その森の状態は良くありません。戦後に植えた人工林が、ほぼ放置されている。
日本の人工林面積は約1,020万ヘクタール(国土の27%)、うち収穫期を迎えた人工林(51年生以上)は約60%。それなのに年間森林伐採率は約0.53%。フィンランドの1/8、スウェーデンの1/7という、世界的に極めて低い水準です。
膨大な木材資源があり、収穫期を過ぎた森も多いのに、ほとんど切られていない、ということです。
背景には、戦後の拡大造林政策で杉・ヒノキを大量に植えた後、1960〜80年代に輸入材自由化で国産材価格が下落したという歴史があります。林業従事者は1980年の14.6万人から2020年の4.4万人へ、40年で3分の1に減少。結果、日本の人工林は「切っても儲からない、でも放置すると荒れる」という厄介な状態になりました。
暗い森が、川と海まで弱らせる
人工林、特に高密度に植えられた杉林を放置すると、何が起きるか。ノンビリムラの近くの森を見ていても、よく分かります。
第一に、林床(地面の植生)の喪失。杉の枝葉が密に重なり、地面に光が届かなくなる。地面に生える草や低木がほぼ消える。
第二に、土壌流出と水源涵養機能の低下。林床に植物がないと、雨で土が流される。本来あった「雨水を地中に貯めてゆっくり川に流す」機能が低下し、豪雨時には土砂崩れの原因にもなります。
第三に、そして一番見落とされがちなのが、海への栄養供給の途絶。森と海は川を通じて繋がっています。森の落ち葉や有機物が川を通じて海に流れ込むことで、プランクトンが増え、魚が育つ。暗い森ではこの栄養供給が大幅に減る。日本の沿岸漁業の漁獲量が1980年代をピークに減少傾向にある一因として、森林の状態が指摘されています。
つまり、第4章で書いた「身体性を伴う感動の宝庫だった里山と田園」の問題は、人間の幸福度の話だけで閉じない。森が暗くなれば、川が痩せ、海が痩せ、漁が痩せる。身体性を担う環境基盤そのものが、連鎖的に弱っている。
お金は開発時しか動かない ── メガソーラーの是非
日本で「森」にお金が動くタイミングは、ほぼ一つしかありません。開発するときです。道路を通す、新幹線を通す、メガソーラーを敷く──こういう時は、土地の取引で莫大なお金が動きます。でも、森を健全に保つこと、メンテナンスにはほとんどお金が回りません。
特にメガソーラーは、各地で進んでいます。再生可能エネルギーの普及という大義名分があり、相場の8倍程度で買い取る制度がこの国にはあります。3.11の悲劇を起点にした政策ですが、結果として、森の樹木が伐採され、表土が削られ、生態系が壊れ、大雨で土砂崩れのリスクが上がり、20年後には廃棄パネルの処理問題が来る。
再エネ自体を否定するつもりはなく、むしろ推進派です。自宅やムラにも徐々に蓄電池と太陽光を入れていこうと考えています。しかし、森を切ってメガソーラーを敷くという選択には、疑問を感じています。屋根の上、壁、駐車場の上、すでに開発された土地の上に、太陽光を載せることを、先に徹底して進められなかったのか。
森は今0円です。収入が上がることと同等の幸福度の可能性があり、水を作り、海産物の源であるにも関わらず、健全に保つことにはほとんどお金が回らない構造です。
ノンビリムラの森のメンテナンス
第1章と重複しますが、ノンビリムラでやっている森のメンテナンスの事例を、改めていくつか紹介します。
竹転(ちくてん):竹林の整理
放置されると暴走的に増える竹を、計画的に伐採して、林床に光を入れる。竹は成長が速い分、放置すると他の樹種を駆逐するので、定期的なメンテナンスが必要です。やったことある人は知っていると思いますが、竹を切るのは結構な重労働。でも、これをやると、明らかに森の感じが変わります。
ビオトープの造成
プラブネ、タライ、素掘り、3つの方法で水たまりや小さな池を作っています。設置後すぐに、トンボ、アメンボ、ゲンゴロウ、ヌマガエル、ミズカマキリなどが来る。第4章で紹介した「鳥が見える環境が幸福度を上げる」研究と直結します。鳥が来るためには虫が必要、虫がいるためには水と植物の多様性が必要。ビオトープはその出発点です。
広葉樹や果樹の植樹
杉だけの場所に、広葉樹を少しずつ植えています。クヌギ、桃、栗、柿、イチジク、サクランボ、スモモ、ブルーベリー、ラズベリーなど。虫や鳥が好む樹種です。成長はまちまち。たぶん私が生きている間に大きな成果は見えないかもしれない。でも、20年後、30年後の森が少し明るくなることを願って植えています。
これらの活動には人手がいります。ノンビリムラは「ボランティア募集」のような堅い枠組みではなく、「川遊びを楽しみつつ、ついでに外来種駆除したり」くらいのカジュアルさで人を呼び込み、遊びのワークショップとしてメンテナンスを行う形で成立しています。整備の速度も、実はこの方が早めているなと手応えを感じています。

ヒト以外の共同体
「共同体」と聞くと、私たちはふつう人間の集まりをイメージします。家族、友人、職場、地域コミュニティ。
しかし私の「共同体」のイメージは、J・ベアード・キャリコットの言う「場所とは、人間以外の生物を含めた場所性」に、ミシェル・フーコーの「いろんな人が参加しやすい場所」を加えたもの。鶏(産卵してくれる)、日本ミツバチ(蜜を作る)、果樹(実をつける)、ビオトープの生き物たち、広葉樹の若木、鳥(虫を食べて種を運ぶ)、ミミズ(土を耕す)、微生物(有機物を分解する)──ムラビトに加え、これら全員が、ノンビリムラのメンバーであり、一緒に場所を作っていく仲間です。
人間だけが特権的な立場にいるわけじゃない。人間も、このシステムの一員として、自分の役割を果たす。竹を切る、植樹する、ビオトープを作る、餌をやる、巣箱を置く──これらは、人間がこの共同体に対して果たす役割です。そして、その代わりに、人間も恩恵を受ける。卵、蜂蜜、果実、生物多様性、心地よい風景、メンタルヘルスの回復。
日本の里山文化は、ずっとこういう構造を持っていました。人間が森に手を入れることで、森が健全に保たれ、人間も恩恵を受ける。この相互関係が何百年も続いてきた。戦後の都市化と工業化の中で、この関係が一旦切れた。森は放置され、生態系は劣化し、人間は森から離れた。ノンビリムラがやっていることは、たぶん、昔から日本にあった里山の関係性を、現代の都市生活者向けにデザインし直している、ということなのだと思います。

この章のまとめ
ノンビリムラは、ヒトのためだけの場所ではありません。森、生き物、人間が、お互いをメンテナンスし合う、小さな生命の共同体を目指しています。
人間は、森から癒し、食、生物多様性、メンタルヘルスを受け取る。人間は、森に対して、メンテナンス、整備や植樹の参加を返す。これが双方向に回ることで、初めて、本当の意味での「共生」が成り立つ。
次の章からは、視野をマクロに戻します。ノンビリムラが日本の地方創生の構造の中でどういう意味を持ちうるのか──基礎自治体の財政、開発依存の構造、輸血経済──大きな話に入ります。