福岡市にできないことをやる5つの政策提案
ここまで、マクロデータと、身体性の話と、久山町の財政構造と、共同体の健康状態を見てきました。ここから、批判で終わらずに、具体的な政策提案に入ります。
中心軸は一つです。久山町は、福岡市にはできないことをやるべき。
福岡市の劣化版を目指すミニ都市化は、第8章で書いた構造的な負け戦です。経済合理性でも、第4章で書いた身体性の話でも、ミニ都市化は答えになりません。
ここから久山町を例に具体的な提案をしていきますが、これは久山町という一つの町だけの話ではありません。本質的には、福岡市の中心部と、それを取り囲む里山──久山、その他の糟屋郡の町、古賀、那珂川、糸島──を含めた「福岡都市圏」全体の話でもあります。利便性(中心部)と身体性(里山)を往復するライフスタイルは、本来、この都市圏全体でシェアされていくべきものだと思います。久山町は、その都市圏の中で「身体性を担う里山」の一つとして位置づけられる。これから書く提案は久山町を具体例にしていますが、同じ構造は他の町、また福岡以外の都市圏にも当てはまります。
5つの領域で書きます。

領域1: 林業 ── 切らない森を、価値のある森へ
第7章で書いた通り、日本の森は今、暗いです。久山町の山林2,636ha(町域の70.4%)も、その例外ではありません。
林業従事者を増やす、というアプローチは、全国でうまくいっていません。価格構造が崩れているからです。なので、別の入口を探したい。
樹上カフェ・町自前の材木を活用したアースバック建築の方針で設計。これは「林業」というより「遊休林の再価値化」です。木材として売る産業には期待できそうにない。しかし、森が無価値な訳がない。治水源や豊かな場所として価値化する。
ツリーネットや低コスト山小屋など、ノンビリムラも実験を重ねています。絶景と絶快を伴う身体性を伴う感動は福岡市内ではなかなか実現できないはず。
地元の杉を、町の公共建築で使う。これも、林業の構造を変える入口になります。久山町の人工林は伐採率0.53%でほぼ放置。これを公共建築で計画的に使う。庁舎、図書館、道の駅、学校──こういう公共施設を木造で建てるという選択は、各地で増えてきました。長野県、岐阜県、福島県の各町村で先行事例があります。地元の木を、地元の職人が加工し、地元の建物に使う。林業の収益が町内に落ち、職人の仕事が生まれ、建物が町のシンボルになる。しかし、使われなくては、ただ朽ちていくだけです。
有望なのは、やはり道の駅。福岡市から久山町を経由して宗像方面へ抜ける車の流れがあるなかで、町の杉を活用した道の駅は、観光資源としても農産物販売の拠点としても、福岡市マーケットへの供給拠点としても十分に機能しうるはず。トリアス内に曜日限定の直売所がありますが、薄暗く、機能性が乏しいです。ここのリノベから始めるなど現実的ではないでしょうか?町に生産能力があることを祈りたいです。
もうひとつ、森を子どもに渡す。
町内には、所有者が手入れできない遊休林がたくさんあります。これを、子どもたちに運営権として渡す。グループ単位で、特定の森の区画を担当し、整備計画を立てて、実行する。
その森で何をしてもいい。秘密基地を作ってもいい、果樹を植えてもいい、ビオトープを掘ってもいい、ツリーハウスを作ってもいい。安全基準と環境基準だけは守る。
大人は、子どもの計画に対して、専門家として助言する。決定権は子どもが持つ。
子どもの運営から、大人が学ぶことが、たくさんあるはずです。これを年次で発表し、町長賞のような形で表彰する。表彰の評価軸は「大人にはない発想で森を使えたか」。
これは林業×教育の融合企画として、「子どもの森プロジェクト」と呼べる規模感の構想です。教室の中での個別最適化ではなく、町全体を教室にする発想。
福岡市の小学校では、絶対にできないことです。

領域2: 教育 ── 小5から、町の現場で働く
国の教育政策は、2015年あたりからSTEM教育(科学・技術・工学・数学)に大きく舵を切りました。プログラミング教室がブームになり、英語教育が低年齢化し、AIリテラシーが叫ばれました。
でも、第4章で書いた通り、プログラミングは今や失業リスクが最も高い職種のひとつになりました。AIで代替される速度が、人間の習熟速度を超える時代です。10年前に落合陽一さんが書いた「魔法の世紀」で描かれたそのままの世界観になってきました。ここにきて、文科省はSTEAMから「個別最適化」「主体性を重視した学び」へとシフトを始めました。
しかし、子ども自身の裁量を増やすということは、主体性がそのまま成長率に影響します。こうしたい、こうなりたい、未来的欲求はそれまでの記憶による価値観と予測精度によって支えられます。
久山町は、「長期的な動機付けの獲得」を義務教育において最重要し、感動の記憶を教室の外で学ぶことを提供価値と設定する。公園、里山、川、そして、小学校5年生くらいからは町の現場で働いて学ぶ。動機づけの源泉となる豊かな記憶と経験学習に注力すべきと考えます。
久山町には、「外貨を稼いでいる現場」がたくさんあります。
- 畜産(肉用牛・産出額3.4億円)
- 農業(耕作放棄地は増えているが、続けている農家もいる)
- 久原本家(茅乃舎ブランドで全国にファンを持つ)
- トリアス(年商380億円、コストコ日本初出店地、年間来場者684万人)
- 物流倉庫群
これらは全部、町外からお金を集め、町内に循環させている装置です。
子どもたちが、小5から、これらの現場で実際に働く。見学ではなく。牛舎の掃除。トリアスのバックヤードの品出し。コストコで商品の補充を見て、規模の経済を肌で知る。久原本家で出汁の調合を学ぶ。
働いた対価として、お小遣いをもらう。働く中で、社会の仕組みを身体で知る。第6章で書いた予測誤差の連続を、現場でくらう。
「見学」と「働く」の差は、決定的です。見学は予測誤差ゼロ、安全地帯から座って観るだけ。働くは身体が応答せざるをえない、現場の判断と失敗の連続。強烈な記憶になる体験も起こり得るのではないかと考えます。
これを支える条件は、いくつかあります。法的整備(児童労働の規制を、教育目的の枠組みで例外化する)、現場側の協力体制、保護者の理解、保険、評価方法。
枠組み設計こそ行政にしかできない仕事です。

領域3: 立ち止まって、棚卸しする ── 終わらせるものと、止めるものを、はっきりさせる
第10章で見た通り、久山町の経常収支比率は90.8%。新規投資の余地は数億円規模。この硬直した予算で、何ができるか。
久山町の議会議員の平均年齢は、還暦を超えており、物理的な条件により語る内容が、短期的で表面的になってしまいます。赤信号が点灯しつつあるマクロ環境と、不確実性の高い未来に対して、今、間違いなく必要な議論のひとつは、増やす議論ではなく、やめる議論であることは明白です。
第8章で書いた通り、現状の経済は、輸血によって支えられています。輸血を前提にして、今のサービスを維持することは、現実的ではありません。
提案します。
サービスの棚卸し:町が今やっている全事業を、コスト・効果・対象人数で並べ直す。継続前提で予算を組み替えるのではなく、ゼロベースで「これは今後も必要か」を問い直す。
一時停止のテスト:廃止が政治的に難しいサービスは、まず1年だけ停止してみる。その間、住民がどう反応するか、代替手段で回せるかを観察する。停止しても誰も困らないなら、それは廃止しても問題ないサービス。
選択と集中:浮いた予算と人手を、町の自前の力を育てる方向に振り向ける。具体的には、領域1(林業・遊休林)、領域2(教育)、領域4(やわらかいインフラ)に集中投入する。
これは政治的に痛みを伴う議論のですが、第2章で書いた通り、痛みを伴う決断を選挙で選ぶのは難しいです。
しかし、それを現世代の民意でやらなければ、急に「壊れた道路、壊れた学校、壊れた水路は急に、お金と人がいないので、できません。仕方ない。壊れたままで、我慢しましょう。」という未来が訪れます。これは抽象的な悲観ではなく、他自治体で多数起こっています。
具体的には、こういう風景です。通学路の橋が点検で「危険」と判定されても、架け替える予算がないまま通行止めになる。全国の道路橋の約37%はすでに建設後50年を超え、2040年には約75%に達します(国土交通省)。橋やトンネルは2014年から5年に1度の点検が義務づけられましたが、「直さないといけない」と分かっても、直すお金と人が足りない、という状態が各地で起き始めています。
そもそも、道路や橋は「作るのも、直すのも」けた違いに高額です。ふつうの国道で1kmあたり約10〜20億円、高速道路なら全国平均で約50億円(うち用地費だけで約13.6億円)かかります(国土交通省)。橋を1本架け替えるにも、数億円規模のお金が要る。しかも、一度つくったインフラは、数十年ごとに、この規模の更新費がまた必ず発生します。人口とお金が縮んでいく町で、この固定費を抱え続けられるのか── 維持できる町とは何か。私たちはまず、この前提から考え直す必要があります。
これは遠い町の話ではありません。久山町でも現に、丁田橋の架け替えや梅田橋の改修、藤河〜猪野線の道路改良といった事業が進んでいます。いまはそれが、国の道路メンテナンス事業補助金や社会資本整備総合交付金で賄えている。けれど、その補助金の原資もまた、第8章で見た「国の借金」に支えられた輸血の一部です。輸血が細れば、この更新費は町が自前で抱えることになります。
水道も同じです。全国の水道管のうち、法定耐用年数(40年)を超えたものは約16万km──全体の約2割にのぼります。それなのに、いま管路が更新されているのは年に約0.64%だけ(厚生労働省)。このペースだと、すべて更新し終えるのに150年かかる計算です。老朽化した管が各地で破れ、断水が増え、更新費を賄うために水道料金が段階的に引き上げられていきます。
これは空想ではありません。2007年に財政破綻した北海道夕張市では、住民税や固定資産税が引き上げられ、下水道やごみ処理などの各種料金も上がり、市の職員は破綻前の半分以下に、給与は平均で約4割カットされました。市立総合病院は診療所に縮小され、小・中学校は各1校に統廃合、図書館や美術館も次々と閉じられました。
「直せないから、直さない」「なくすしかないから、なくす」。この判断が積み重なったとき、人はようやく「この町は、もう以前のようには維持できないんだ」と気づきます。でも、気づいたときには、選べる手は、もうずいぶん少なくなっています。
だからこそ、議論の俎上に長期視点の地図を載せる必要があります。第10章で書いた21年・10年・7年の3スパン分析のように、いま意思決定すれば何が起きるかを、議会と町民に可視化する。
廃止対象を具体的に何にするかは、町長部局と議会と町民の議論ですが、議論の枠組みとしては「終わらせるものをはっきりさせる」ことから始める必要がある、というのがこの章の主張です。
そして、「終わらせる」のは、サービスだけではありません。同じことが、開発にも言えます。
第10章で見た通り、久山町は2006-2007年に「開発抑制」から「計画的開発」へ方針転換しました。これが「攻めの遺産」を作りましたが、同時に物流倉庫乱立のリスクも生み出しています。
止められるもの、止められないもの、あると思いますが、立ち止まり、止めて空いた時間で、今度は逆に「町にすでにあるもの」を棚卸しする。
地域経済循環率137.1%、九州大学医学部との64年連携、福岡市160万人の水源、年間来場者684万人のトリアス、茅乃舎ブランド、町域70%の山林、肉用牛、人口微増。そして、町内全戸の水道を自前の浄水場と5つの自己水源(猪野川・久原貯水池ほか)でまかなう、自己水源の町でもある。山・田園・生活が、水でつながっている。入院・救急・高度医療は町内で完結せず、隣接自治体の医療資源に依存している。強みと弱みを住民全員が生活の前提として認識している状態を作る。これは、共同体のためという文脈ですが、自分がどこで生きている人間なのかを知ることは、デメリットなく、幸せになりやすくなる状態にもなりやすいです。

領域4: やわらかいインフラ ── 道路・水路・耕作放棄地を、防災に強いまま柔らかくつなぐ
最後に、これまでの3領域を一本に束ねる、少し大きな構想を書いておきます。仮に「やわらかいインフラ」構想と呼びます。道路・水路・耕作放棄地という、町のインフラそのものを、防災の強さは保ったまま、柔らかく作り替えていく提案です。
大事なのは、これが久山町に「たまたま合う」話ではない、ということです。久山町は、50年かけて、この構想ができる町になってきた。昭和44年(1969年)に全町域3,743haを都市計画区域に定め、その約97%を市街化調整区域として、無秩序な開発を抑え続けてきました(久山町)。だから町土の3分の2が今も山林として残り、福岡都市圏のなかで、回廊を引けるだけの連続した自然が手つかずで残っている。第10章で見た通り、人口も2050年まで微増、2070年でも9,389人と推計されています(第3期久山町人口ビジョン)。全国の過疎自治体のように「崩壊」しない。だからこそ、余力のあるうちに、急がず計画的にインフラを組み替えられる──これは、全国でも稀な立場です。
道路を、交通量と重さで仕分ける。いまは、ほとんど車の通らない町道も、アスファルトで維持しています。けれど舗装は「貼って終わり」ではなく、更新のたびに費用が発生する。そこで道路を3つに仕分けます。県道・国道・幹線町道、そして救急・消防・ごみ収集・農機が通る生活道は、これまで通り舗装を維持する(A)。乗用車が1日数十台程度しか通らない町道は、完全な舗装更新をやめ、金継ぎのような舗装、もしくは締め固めた土や砂利に戻す(B)。ほぼ車が通らない行き止まりや農道は、馬道や歩道として土に返す(C)。
ここで効いてくるのが、メンテナンスコストの差です。アスファルト舗装は、敷いたら終わりではなく、十数年ごとに表層を打ち替え続ける永久に費用が発生し続ける性質のものです。
第10章で見た通り、久山町は自由に動かせるお金が数億円規模しかない硬直した財政です。そのなかで、ほとんど使われない道にまで、この終わりのない舗装更新費を払い続けるのは重い。BやCに転換すれば、その路線にかかるはずだった舗装の打ち替え費というコストが、生物多様性や治水、観光資源というインカムに変態します。海外の研究でも、条件によっては、舗装を続けるより未舗装に戻すと生涯コストが下がるとされています。基準は「どれくらい使われているか」ではなく「1日に何台、8トン以上の車が通るか」です。
そして、もうひとつ見逃せない論点は、財源です。舗装の大規模な打ち替え(表層の切削・オーバーレイ等)は、その多くが地方債──つまり「町の借金」で賄われています。久山町も、道路を長寿命化計画に沿って計画的に直すために、この起債を使える立場にあります(公共施設等適正管理推進事業債)。地方債は、施設を将来世代も使うのだから償還も将来世代に分担してもらう、という「世代間の公平」を建前にした制度です。しかし、裏を返せば、いまの享受する便益を、未来からの前借りで支えるという、「輸血」です。
その土の道を、馬で巡る。耕作放棄地に馬を放牧して草を食べさせれば、草刈りの負担が減り、獣の隠れ場も消える。その放牧地と土の道(C)をつないで、馬道にする。第10章で触れた首羅山遺跡のガイダンス施設の土地を起点に、まずは敷地内で曳き馬から始め、近くの耕作放棄地を結ぶ短い里山トレイル、やがて複数の放牧地を巡る周遊コース、最後は町を一望できる眺望点まで──と、段階的に伸ばしていく。外乗(ホーストレッキング)は全国で確立した観光ジャンルで、都心から近い立地ほど強い。福岡市まで車で約30分の久山町は、その点で全国の中山間地と段違いの条件を持っています。
水路の底を、部分的に土に戻す。3面コンクリートの水路は、水を速く流すには優れていますが、在来の魚や水生昆虫は棲みにくい。ただし、ここには「鯉のジレンマ」があります。久山町は下久原で鯉を放流し、澄んだ水を泳ぐ姿を観光資源にしている(久山町)。だから「鯉をなくす」のではなく、区間を分ける。鯉の鑑賞区間は今のまま残し、別の区間で、底版の一部を抜いたり、窪みや寄せ石を入れたりして、在来の生きものの居場所を取り戻す。国の「多自然川づくり」は、治水の安全性を確保しつつ自然を再生する取り組みで、1990年に始まり、2006年の基本指針ですべての川づくりの基本になりました(国土交通省)。隣の福津市・上西郷川は、その優良事例として国に取り上げられ、改修後に魚種が約3.8種から11.1種へ増えています(国土交通省・土木学会)。久山町研究で続く九州大学との縁を活かせば、こうした研究連携も前例があります。
耕作放棄地は、放牧で防災と景観を兼ねる。適切に管理された棚田や草地は、雨水を地中にしみ込ませ、豪雨時の土砂崩れを和らげる国土保全の機能を持ちます。耕作放棄地を放牧で保つことは、景観の問題であると同時に、防災への投資でもある。人工の堤防やダムのような「硬いインフラ」は造った後も多大な維持費がかかりますが、森や草地のような「やわらかいインフラ」は、自然の力を借りる分、安く済むことがある。
これらを一本につなぐと、「水と馬の回廊」になります。トリアス久山という年間684万人の入口から、土と砂利の道と馬道を通って、放牧地へ、再生水路へ、猪野公園・三日月渓流公園の清流へ、そして「九州の伊勢」と呼ばれ、伊勢神宮を模した五十鈴川を擁する伊野天照皇大神宮へ。水源の町で、舗装を土に返し、馬と水で巡る──点で散らばっていた資産が、一本の物語として結ばれる。トリアスにすでに来ている大量の人を、町の自然へと流す動線にもなります。
もちろん、簡単な話ではありません。しかし、追い風がなくなれば、挑戦しにくい時代に突入します。人口が崩れていない、今の久山町だからです。
そして、町道の舗装をライフサイクルコストで見直す、水路をやわらかくする、耕作放棄地を放牧で管理する、馬で里山を巡る──そのどれもが、国の政策の言葉(道路舗装個別施設計画、多自然川づくり、Eco-DRR・グリーンインフラ、観光地域づくり)と、そして町自身が掲げる「国土・社会・人間の3つの健康」「持続可能な豊かさ」という理念とつながっています。久山らしさの延長線上にある、コストも抑えうる現実策として、議論の俎上に載せられるはずです。
領域5: エネルギー ── 水の次は、電気も自前でつくる
領域4で、水路や耕作放棄地という「町のインフラ」を自前で柔らかく回す話をしました。同じ発想は、電気にも効きます。むしろ電気のほうが、町にお金を残せる。
久山の電気は、いまほぼ太陽光だけです。東北大学の地域エネルギー需給データベースでは、久山町の再エネ発電の中身はほぼ100%が太陽光で、発電量は年間およそ12GWh、町全体の電力需要107GWhに対して、電力自給率は約11%にとどまります。
ところが同じデータベースには「理論上どこまで作れるか」も入っていて、こちらは現状をはるかに上回ります。屋根と地上の太陽光だけで町の電力需要を超え、手つかずの陸上風力まで足すと、再エネのポテンシャルは需要の約2.5倍。資源が足りないのではなく、作っていないだけ、というのが久山の現在地です。
ただ、「ならパネルを増やして売ればいい」とはいかないのが九州です。全国で一番早く、一番頻繁に出力制御──晴れて電気が余るとき、九電が太陽光の発電を一時止める指示──がかかってきた地域で、その率は2023年度に8.3%まで上がり、その後も6%前後で高止まり。系統は、もう詰まりぎみです。
ここで効くのが、逆転の発想です。敷地内で使う電気には、九電は出力制御をかけられない。系統が詰まっているほど、「売らずに、その場で使う」価値が上がる。そして久山には、その主役にふさわしい巨大な屋根がある──トリアスです。
どれくらい巨大か。トリアスは敷地約27万㎡・駐車場4,200台、九州でも有数の大型商業施設です。その屋根と駐車場をパネルで覆えば、ざっくり試算で年に十数GWh──久山の電力消費107GWhの1〜2割ほどを、この一施設だけで生み出せる規模になります(屋根・駐車場あわせて十数MW級の太陽光を載せた場合の概算)。
トリアス一つでも、まず自分たちの電気をまかない、余りを町民へ回すには足ります。そこに役場・学校・体育館といった公共施設の屋根を足せば、町の電力の3割前後も視野に入ってくる。さらに物流倉庫のような広い屋根を持つ民間事業者にも、設備投資を呼びかけていく。やるかどうかは事業者の判断ですが、町とトリアスの地域新電力が旗を振り、屋根を一つのネットワークにまとめていく。自分の会社の屋根が町の電気を支えている──それは、事業者にとっても、そこで働く人にとっても、誇りになるはずです。
屋根と駐車場いっぱいに太陽光を載せ、大型蓄電池に昼ためて夜使う。トリアスが自分で使い切る分には、託送料も賦課金もかからず、電気は激安になり、出力制御の影響も受けない。余った電気は、町とトリアスが共同出資する地域新電力が町民へ届ける。利益は、町に残る。
これは、福岡市にはできないことです。中心部に、トリアス級の屋根も、パネルを並べる土地もない。大量の屋根と自家消費という条件がそろうのは、里山側の町だからです。
「次世代のペロブスカイト太陽電池を待ったほうがいいのでは」という声もあるかもしれません。でも、待つ必要はないと思っています。ペロブスカイトはまだ本格実装に至っておらず、トリアスのような強い平らな屋根では、安くて耐久も実績もある量産シリコンに、いまは分があります。ペロブスカイトの本領は、同じ屋根を置き換えることではなく、シリコンが載らない面──軽くて弱い屋根や、壁、半透明にできる窓ガラスなど──にあります。だから、実用化されたら、その強みを活かして後からそうした面に足していけばいい。今ある安価なパネルで、まず始める。それで十分です。
このプランの先に、もう一歩進めることもできます。物流のEV化のように、化石燃料のうち「電気に置き換えられるもの」を電化していくと、久山の自給率は直感より大きく跳ねます。電力の自給率は今の約11%からほぼ100%へ。燃料も含めた総エネルギーの自給率も、今の約3%から45〜50%へ。
なぜそんなに跳ねるのか。電化は需要を「移す」だけでなく「縮める」からです。EVはガソリン車の3〜4倍効率がよく、同じ距離を走るのに必要なエネルギーは約4分の1で済む。自給すべき量そのものが、小さくなる。
なお、次の図に出てくる「TJ(テラジュール)」は、電気だけを測る GWh と違い、燃料や熱まで合わせた「総エネルギー」の単位です。1 TJ はおよそ 0.28 GWh、ざっくり一般家庭数十世帯ぶんの年間電力にあたります。
天井が50%どまりなのは、工場の高温の熱(石炭の大部分)と都市ガスが、今の技術では電気に置き換えにくいため、水素などの別の手も必要ですが、電化+再エネで現実的に届く約50%でも、里山の町としては十分すぎる射程です。
そして、ここで領域4とつながります。水を自前で循環させ、電気も自前でつくる。電力をほぼ100%自給できれば、いずれは余りを周辺へ売る側にも回れる。水も電気も自給し、外に輸出できる町──それは福岡市にはできない、久山という里山の町の戦略になります。
5つの領域は、ひとつのプロジェクトになりうる
ここまで5つの領域を書いてきましたが、これらは別々の話ではありません。
- 領域1の遊休林を、領域2の子どもたちが運営する
- 領域1の地元杉で、道の駅を建てる
- その道の駅で、領域2の子どもたちが働いて学ぶ
- 領域4の「水と馬の回廊」が、領域1の遊休林と里山の集客点を、土の道で結ぶ
- 領域3で浮いた予算と人手を、領域1・2・4に集中させる
- 領域4の水のインフラと、領域5のトリアス太陽光が、「水も電気も自前で持つ町」をつくる
つまり、これは一つの統合企画として動かせる規模感です。仮称「久山子どもの森プロジェクト」とでも呼べる構想。
これら全部が、福岡市にはできないことです。福岡市には山林が少ない。福岡市には農地が少ない。福岡市には子どもが歩いて行ける森がない。
久山町だから、できる。
「身体性を伴う感動」が、町の戦略になる
最後に、第4章の話に戻ります。
本章で提案したことは、すべて、身体性を伴う感動が町の中に組み込まれていく仕組みです。
子どもが森で働き、土を触り、火を扱う。住民が地元の生産者と顔の見える関係を持つ。福岡市の都市生活者が、久山町の里山で予測誤差まみれの経験をする。地元の杉で建てた建物が、町のシンボルとして残る。
そして、水も電気も食も、できる範囲で自前でまかなう。その自給は、コストの話である前に、誇りの話です。自分たちの町を、自分たちの手で支えている──第11章で書いた「場所への誇り(pride in place)」は、こういう手ざわりから育ちます。
これは「経済政策」であり、同時に「身体性の回復政策」でもあります。両方を分けて議論する必要はない。
「世界は生きるに値する感動に満ちている」というプロローグの仮説を、町の戦略として制度化する。これが、ノンビリムラの3年間から見えてきた、私の提案です。
実現する道のりは、長いと思います。でも、第8章で書いた輸血経済の限界が来る前に、動き始める価値はあると思っています。
今後の展開のために、読んでみて感じたこと・気づいたこと・感想を募っています。よろしければ、ご協力ください。感想が増えるほど、焚き火が大きくなります。
まだ火種だけ。