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CHAPTER 13

農園的都市生活のススメノンビリムラが提案する生き方

この最後の章で、ノンビリムラが社会に対して提案したい生き方を、はっきり言葉にしたいと思います。第1〜12章までの全部が、この章のための助走でした。

それを私は「農園的都市生活」と呼んでいます。

まず、誤解を解いておきたいこと

ノンビリムラのことを話すと、「いいですね、田舎暮らし」「移住するんですか」「自給自足ですか」と聞かれることがあります。

ここで、はっきり書いておきたいことがあります。

ノンビリムラは、田舎暮らしを推奨していません。移住を勧めているわけでもありません。自給自足を目指しているわけでもありません。

これは、現代の地方創生のメッセージとは、たぶん少し違う方向性です。

なぜ、こういうスタンスを取っているか。理由を順番に書きます。

都市に住むことは、合理的だ

第8章で書いた通り、人口密度が高い場所ほど、一人当たりのインフラコストは安くなります。これは経済合理性そのもの。

これからの時代、社会保障費の負担は確実に重くなります。第2章で書いた通り、社会保障給付費は140.7兆円、対GDP比22.4%。今後も高齢化で年3,700億円ずつ自然増していく。

こういう社会の中で、個人が経済的に持続可能に生きるためには、都市に住むのが合理的な選択であることが、多くの場合、事実です。

僻地が生き残るには、画期的なイノベーションが必要です。海士町のような優等生でも、自主財源12.3%。ほとんどの僻地は、都市からの輸血なしには成り立たない。

そして、その輸血元である国の財政も、限界に近い。輸血が縮小していく未来は、ほぼ確実にやってきます。

そういう未来において、多くの人にとって、都市に住み続けることが、現実的な選択肢になります。

でも、都市生活には穴がある

一方で、ここまで書いてきた通り、都市生活には深刻な穴があります。

第2章〜3章でデータと共に見たように:

  • 人間関係の希薄化
  • 子どもの不登校・自殺の増加
  • 親子関係の脆弱化
  • 出生率の崩壊
  • 孤独と孤立の蔓延
  • メンタルヘルスの悪化

これらは、都市の便利さと表裏一体に発生している現象です。

そして第4〜7章で見た通り、人間の幸福、認識、学習、生存スキルのすべては、「身体で世界と対話する経験」の上に乗っている。都市の高度に管理された環境では、この経験が構造的に欠如しがちです。

第7章で見た通り、都市から離れた森や里山も、メンテナンスされずに荒れている。

つまり、「都市に住むのが合理的だが、都市生活には穴がある」という状態が、今の日本の現実です。

「移住」か「都市生活」かの二項対立を超える

地方創生の議論では、しばしば「都市vs地方」という二項対立で語られます。「都市の便利さを取るか、地方の豊かさを取るか」という選択。

でも、私はこの二項対立そのものが、現実に合っていないと思っています。

多くの人にとって、移住は現実的な選択肢ではない。仕事、家族、子どもの教育、住宅ローン──移住には大きなコストがかかります。それを払える人は、少数です。

一方で、都市にずっと閉じこもっていると、上で書いた「穴」が、どんどん深刻になっていく。

じゃあ、どうすればいいか。

私の提案は、二項対立を超える、こういう生き方です。

「農園的都市生活」という提案

都市に住み続けながら、周辺の里山に高頻度で通う、という生活様式。

これを、私は「農園的都市生活」と呼んでいます。

具体的には、こういうイメージです:

  • 平日は都市で仕事をし、生活を回す
  • 週末や月に何回か、車や自転車で1時間圏内の里山に通う
  • そこで、土を触り、火を起こし、生き物と関わり、子どもを遊ばせる
  • 簡単な収穫や採卵に参加する
  • 何かをメンテナンスする手伝いをする
  • 仲間と話す、食べる、休む
  • そして、また都市に戻って、平日を過ごす

これだけです。

地方移住のようなドラスティックな変化は伴いません。住宅ローンを変える必要もない、子どもの学校を変える必要もない、仕事を変える必要もない。

でも、生活の中に、里山との接続点を、習慣として埋め込む。

これが、ノンビリムラが提案している生活様式の核です。

都市にいる便利さを捨てずに、里山の経験を生活に取り戻す。これがノンビリムラの提案。

なぜ、これがうまくいくと思うのか

この生活様式が、現代の都市生活の問題を解決する可能性があると思う理由を、整理しておきます。

● 理由1:移住のコストを払わずに、自然との接続を回復できる

移住には、仕事、住居、人間関係、教育環境を全部組み替える必要がある。これは、ほとんどの人にとって、現実的ではない選択。

でも、「週末に通う」なら、コストはずっと小さい。都市生活の利便性を捨てずに、里山の経験も得られる。

● 理由2:都市の問題と里山の問題を、両方解決する可能性がある

都市生活者が抱える問題(人間関係の希薄化、子どもの自然体験不足、メンタルヘルス)は、里山に通うことで部分的に解消できる。

里山が抱える問題(人手不足、メンテナンス不在、生態系の劣化、経済的な持続不可能性)は、都市生活者が定期的に通うことで、人手と経済が回り始める。

この二つの問題が、同じ仕組みで同時に解決できる可能性があります。

● 理由3:イオンモールに負けない心地よさ

これも大事なポイントだと思っています。

「環境のために」「社会のために」だけでは、人は動きません。人が動くのは、それが心地よくて、楽しくて、自分にとって意味があるからです。

ノンビリムラを設計するとき、私が大事にしているのは、「イオンモールに負けない心地よさ」を作ることです。

つまり、「都市の快適さに対抗できるだけの、別種の快適さ」を、里山に作る、ということです。

きれいなトイレ、整備された駐車場、安全な遊び場、おいしい食事、心地よい休憩スペース──こういう「都市的な快適さ」をベースに、その上で、火、水、土、生き物、人とのつながりという「里山的な豊かさ」を載せる。

両方が揃って、初めて、都市生活者が「また来たい」と思える場所になる。

これは「自然回帰」ではなく、「都市的快適さ × 里山的豊かさ」の掛け算です。

一石二鳥の二乗

私はノンビリムラの設計のことを話すとき、「一石二鳥の二乗」という言い方をすることがあります。

つまり:

一石二鳥:個人が自然と関わる × 環境にも貢献する。
その二乗:上記が、楽しい × 経済的にも成り立つ × 子どもの教育にもなる × 自分の健康にもなる × 仲間ができる × メンテナンススキルが身につく

複数のメリットが、同時に発生する設計を目指しています。

これは「環境のために我慢する」モデルではなく、「自分の楽しさを追求していたら、結果として社会と環境にもプラスになっていた」というモデルです。

このモデルの方が、絶対に長続きすると、私は思っています。

「救済前提社会」からの離脱

第2章〜第3章で、現代社会の構造として、「排除と救済がなければ生きられない人間」を量産する側面がある、ということを少し触れました。

社会保障システムは必要です。困っている人を支える仕組みは、絶対にあるべきです。

でも、そのシステムだけに依存するのではなく、「自分で自分を生かせる人間」が、もう少し増えてもいいんじゃないか、と私は思っています。

ノンビリムラに通って、火を起こせるようになる、土を動かせるようになる、生き物の世話ができるようになる、自分で何かを作れるようになる、仲間と協力できるようになる──こういうスキルが身についていく人は、社会保障に「全面依存」する状態から、少し距離を取れるようになる。

これは、社会保障を否定しているわけではありません。社会保障があった上で、それに加えて、自前で生きる技を持っている人が増えれば、社会全体の脆弱性が下がる。

これが、第5章で書いた「マタギ的スキル」の社会的な意味でもあります。

3つの実践指針

ここまでの話を、具体的な実践指針として整理すると、こうなります。

● 1. 個人として、未来の生き方のモデルを作る

意地でも自転車で移動してみる。地産地消を意識する。土に触れる時間を意図的に増やす。都市生活の中で、できる範囲で、身体性を取り戻す習慣を埋め込む。

● 2. ヒト以外を含めた共同体として、未来の回し方のモデルを作る

森林整備、ビオトープ、植樹、養鶏、養蜂──ヒト以外の生き物と一緒に回るシステムを、小さく作っていく。これは、第7章で書いた「共生」の実践。

● 3. 輸血経済から自立経済へ、外貨獲得視野に、価値生産をする

開墾、スマート農業、小規模畜産、観光と文化──外部に対して価値を提供して、対価を得る仕組みを作る。これは第9章・第12章で書いた地方の自立経済の実践。

ポジショントークであることは、自覚している

ここまで書いてきて、私は自分の立場の偏りを、ちゃんと認識しています。

ノンビリムラを運営している私が、「ノンビリムラに通う生活様式が良い」と書いているのは、完全にポジショントークです。否定しません。

ただ、ポジショントークだからといって、間違っているわけではない。

私は、3年やってきて、たくさんのデータを見て、たくさんの研究を読んで、たくさんの来訪者の様子を観察して、自分の中で「これが正しい方向性だ」と思える結論に至りました。

その結論を、できるだけ正直に書いています。違う立場の人が、違う結論に至ることもあるでしょう。それは健全なことだと思います。

ただ、私の今の信念として、「都市に住みつつ、里山に通う生活」が、これからの日本社会において、相当多くの人にとって意味のある選択肢になりうる、と思っています。

そして、ノンビリムラは、その選択肢を提供する場所として、これから5年、10年、20年と続けていけたらいいなと。

この章のまとめ

長い記事も、ここで結論に近づきます。

ノンビリムラが社会に対して提案している生き方は、こうです:

「都市に住み続けながら、周辺の里山に高頻度で通う」「都市生活の便利さを捨てずに、里山との接続点を、習慣として埋め込む」「身体で世界と関わる経験を、生活の中に意図的に取り戻す」「人間以外の生き物と関わる回路を、もう一度開く」「自分の楽しさを追求しながら、結果として社会と環境にもプラスになる仕組みを作る」「補助金で生かされる場所ではなく、自前で立つ自立経済を目指す」

これら全部が、3年やってきて見えてきた、ノンビリムラの「方向性」です。

完成形ではありません。これからも修正していきます。でも大きな方向性として、これが現代の都市生活と里山の両方を、同時に少しだけマシにする可能性のあるアプローチだと信じています。

そして、この「農園的都市生活」は、一人ひとりのライフスタイルの話であると同時に、地域全体のデザインの話でもあります。福岡市という中心があり、その周りに久山・糟屋・糸島といった里山が広がっている。この「福岡都市圏」全体を一つの生活圏として見たとき、中心部が利便性を、周縁の里山が身体性を担い、人々がその間を往復する──そういう圏域のあり方が描けます。久山町だけが頑張る話ではなく、福岡市にできないことを、久山も、糟屋も、糸島も、それぞれの里山が引き受けていく。農園的都市生活は、福岡都市圏全体でシェアすべきライフスタイルなのだと思います。

最後にエピローグで、3年目の節目に、ムラビトたちに向けて、もう一度言葉を置きます。

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